「見守りましょう」という言葉

こんにちは。トリコです。

不登校が始まってから、何度となく耳にし、目にしてきた

「見守りましょう」という言葉。

その言葉に、私はずっと不信感を抱いたり、救いを求めたり。

たくさん振り回されてきたような気がします。

今回は、その「見守りましょう」という言葉について、

今の私が考えていることを少し書いてみたいと思います。


ネコジローが不登校になりたての頃、私は不登校に関する本を手当たり次第に読みました。

藁にもすがる思いで、何かヒントになるものはないかと探していたのだと思います。

けれど、どの本を読んでも、繰り返し出てくるのは

「今は見守りましょう」という言葉でした。

市の相談窓口にもいくつか足を運びましたが、返ってくる答えは似たようなものです。

「今は充電期間かもしれませんね」

「焦らず、見守っていきましょう」

そのたびに、胸の奥がざわつきました。

「見守る」

それは、何もしないということなのではないか。

このまま、何も変わらず時間だけが過ぎていくのではないか。

そんな不安が、どうしても拭えなかったのです。

そんな中で、「見守りましょう」という考え方に異議を唱える一冊の本に出会いました。

今振り返れば、少し荒療治とも言える方法だったと思いますが、当時の私はそこに活路を見出しました。

(このことについては、過去の記事「見守るだけじゃない方法」でも書いています)

今になって思うのは、「見守らない」方向の方法は、

実は親にとって都合がよかっただけなのかもしれない、

ということです。

何かをしている、動いている、関わっている。

そう感じられることで、不安を紛らわせていたのは、

子どもではなく私自身だったのだと思います。

今の私は、「見守る」という言葉を、少し違う意味で受け取っています。

それは、ただ黙って見ていることではありません。

見守ることは、とても苦しいです。

先回りしてきた私にとって、

「失敗するだろうな」

「傷つくだろうな」

そう分かっていることを、何も言わずに見ているのは、本当に難しい。

意識していても、つい口を出しそうになったり、実際に言ってしまったりもします。

それでも、子どもが自分の足で歩けるように。

自分で考え、選び、動けるように。

一歩引いた場所から、そっと支える。

失敗しながら、傷つきながら、そこから何かを掴み取っていけるように。

かつての私は、「見守りましょう」という言葉を、無責任なものだと思っていました。

でも今は、親が親として生まれ変わるために必要な言葉なのかもしれない、と感じています。

「見守りましょう」には、きっとたくさんの意味が込められています。

そして、それは不登校に関わる中で、一番難しいことなのではないでしょうか。

子どもを信じること。

子ども自身が気づき、歩き出すその時まで、支えながら待つこと。

簡単なようで、無責任な言葉のようで、

何よりも覚悟がいることだと、今は思っています。

「見守りましょう」に不信感や疲れを感じた頃の話です。



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